【連載】胴長短足2の①道具が変わった文明開化

2010.07.19
「なぜ日本人の体型は胴長短足だったのか」2の①
・道具が変わった文明開化

道具が変わったといわれても、文明開化からさらにグローバル化の進んだ現代では、日本と西洋の道具を区別するのが難しいかもしれません。まずは、様々な西洋の道具が入り込んで来た『文明開化』の時代を振り返ってみましょう。

江戸時代の長い間、日本は外国との貿易を最小限に行う『鎖国』といわれる状態を保ってきました。この日本を開国させるきっかけとなったのが、あの有名なぺリー率いるアメリカ海軍の黒船です。

1853年、今から約155年前の神奈川県横須賀市東部の浦賀港に九隻のアメリカの大艦隊が来航しました。この後、幕府とアメリカは日米和親条約を結び、徳川家光以来200年以上に渡ってきた日本の鎖国が解かれました。鎖国状態の日本では、国内の秩序の維持と安定を命題としていたようです。

そのため、外洋航海できる大型船の製造を禁止したり、連発銃(ガトリングガン)や大砲の開発を禁止していました。織田信長が使用して以来、関ヶ原まで使用していた鉄砲も廃止されました。
これに比べ同時期の西洋では、蒸気機関の発明により『産業革命』が起きていました。技術革新により、大型の蒸気汽船が開発され、鉄砲技術も各段に向上していったのです。

このように、西洋諸国と日本の技術格差は大きく広がっていました。大きな技術格差のため、武装による中立を保てなく日本は、やむを得なくアメリカと条約を結びました。
当時の西洋諸国はアジアに新しい市場を求めていました。シンガポールや香港のように植民地化されることを日本は恐れました。

植民地化を恐れた日本は、『富国強兵』と『殖産興業』をスローガンに掲げ、驚くべきスピードで西洋文化を取り入れ、西洋諸国に追いつこうとします。日本は1871年から2年間に渡って岩倉具視ら百人あまりを欧米視察に派遣します。

欧米視察の結果、日本は政治組織、軍隊、経済組織の全てを西洋化していきます。夏目漱石は、文明開化の様子をこのように表現しています。

(『漱石文明論集 三好行雄編』岩波文庫より)
「それまでに存在し、機能していたもろもろの価値を全面的否定し、新価値を全面的肯定することが、西洋と日本のあいだの落差を埋め、日本が生き残るための唯一の方法だったのである。」

また、こうも記しています。

「維新前は殆ど欧州の十四世紀頃のカルチュアにしか達しなかった国民が、急に過去五十年間において、二十世紀の西洋と比較すべき程度に発展したのを不思議がるのである。僅か5隻のペリー艦隊の前に為す術を知らなかったわれらが、日本海の海戦でトラファルガー以来の勝利を得たのに心を躍らすのである。」

14世紀から20世紀へ。600年もの文明の差を、日本はわずか50年で埋めてしまったのです。これほど日本が西洋化するスピードは速かったのです。洋服、洋髪、洋室、洋食、洋酒、洋菓子、洋食器、洋楽、洋刀、洋書、洋舞など、当時に取り入れられたものを挙げればきりがありません。現代ではいちいち『洋』などつけて呼びませんが、これらは全て西洋から取り入れられたものです

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