『文系の壁』読書記録

養老

北里大学で学生に教えたとき、最初の講義で僕は学生にこう尋ねました。

「コップに入っている水にインクを一滴垂らしたあと、しばらくするとインクは消えてしまう。なぜだと思う?」

学生の答は、「そういうものだと思ってました。」

これは実にうまい生き方だと思った。そういうものだと思ってしまえば、いろんな問題を避けて上手に生きていける、この世間では、追究しない、前提を問わない方が生きやすくて、異を唱えると嫌がられてしまう。今にして思えば、僕もいろんな人によく煙たがられましたよ。

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言葉を覚えたばかりの子どもと話していると「何で?」「どうして?」がずっと延々と続きます。

「雨だね。」

「何で雨なの?」
「上のお空からふってきているの。」

「何で上からふってるの?」
「お空の雲からふってくるの。」

「何で雲からふるの?」
「雲はね、水蒸気を含む空気が上昇して冷やされることによってできているからだよ。」

「何で?」
「そういうもんなの。」

雲の説明くらいから、使える言葉が少ない小さい子どもには説明が難しくなってきます。(自分にもそんな知識無いですし。)
たとえここまで理解できても「水蒸気って何?」「何で冷えるの?」と延々と続くだろうと予測できます。

ですので、「そういうものなんだよ」と処理するか、「雷様が太鼓を叩いて・・」というような昔話のように説明すると思います。

世の中全ての出来事を自分一人で科学的に処理して理解するのは不可能なのではないでしょうか。そう考えると脳の容量を節約するために「昔話」はとても便利なものなのかもしれません。

河合隼雄先生も何かの本で、「天国や地獄の物語があった方が人間は『死』の恐怖に対して安定できる」とか、「子どもには『コウノトリが赤ちゃんを連れてくるんだ』と説明した方が腑に落ちやすい」というようなお話しをされていたと思います。

脳の容量にも限界があるでしょうし、「そういうもの」とか「神話」や「昔話」がという情報処理方法があった方が人間は生きやすいのだと思います。小さいうちは全てを科学的に理解するよりも昔話のように理解した方が創造性や情緒も豊かになりそうですし。
ただ、大人になって科学者を目指すのであれば、簡単に「そういうものだ」で処理してはいけないのでしょうね。

全てを「そういうものだ」で処理してしまってはあまりにも頭を使わな過ぎるし面白くありません。しかし、世界の全てを「そういうものだ」を使わずに処理するのは不可能に近いと思います。

私は、「コンニャクの表はどっちなの?」と聞いてきた患者さんがいたという精神科のドクターの先生のお話が忘れられずにいます。

鋭すぎる感性と、「病気」と診断がついてしまう状態は、紙一重なのかもしれません。


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