甥とオセロ

オセロ

お盆の話。実家に帰って来年の春に小学生になる甥とオセロをした。
子供なので自分が負けそうになると勝手に新しいルールを作ってしまう
のが面白い。

持ちコマの白と黒が入れ替えたり、いっきに二つのコマを置いたり、
枠の外に置いたり、よく思いつくなと感心する。
(しかしルールから逸脱してコマが並んだ盤上には規則性が感じられず
気持ちが悪かった。)

子供には多少ルールを破られても勝てる自信があったが、枠の外にコマを
置かれるのには敵わず負けそうになった。
「ノーゲーム!!」と叫び今春35歳になった男性の大きな手が盤上の
コマをグチャグチャに掻き回した。
まぁ、どっちもどっちだ。

自分が小さい頃に両親や祖父母に遊んでもらったことを今は自分が甥にしている。
歳を重ねて、家族の中での自分の役割が変わってきている。

幼児とは『過去の私』のことであり、老人とは『未来の私』のことで
あり、病人や障害者は「たまたまある分岐点で『あっち』にいった私」
である。

私たちは時間差を置いて、あるときはこの『十字架』を担う側に
まわり、あるときは『十字架』として担われる側にまわる。

トータルではだいたい『とんとん』だと私は計算している。

『邪悪なものの鎮め方』 内田樹 著

家族だと容姿が自分と似ているからなおさらそう感じる。
祖父と電車のお年寄りの姿が重なって席を譲るし、甥と外の子供の姿を重ねて、
危なっかしい行動も大きな目で見守ってあげる。

昔の自分はあんなふうだったし、未来の自分はこうなっていくんだろう。

道徳の教科書を頭で暗記させるのではなくて、一生という長いスパンで
考えると『お互い様』なのだということを体で理解しなくてはいけない。

「鈴木先生、年齢ってね、相対的にとるものらしいですよ。」
これも納得。