『生きるとは、自分の物語をつくること』読書記録その③

(『生きるとは、自分の物語をつくること』ではなく、別の本からの引用です。)


じつはこの人は、恋人と待ち合わせをしていて、その恋人が来る途中で交通事故で亡くなってしまったという人だったのです。それで抑鬱症になるわけです。
こういう人は、私のところに来て必ず訊かれます。「なぜ、あの人は死んだのですか?」と。そのとき、自然科学に訊いたなら、すごく簡単に答えは出ます。「それは、頭蓋骨の損傷です」と。これは、間違ってはいません。非常に普遍性のある話です。ただ。この人が訊きたいことは「私の恋人」はなぜ死んだのかということなのです。私と、私の恋人との関係において、なぜあの人は死ぬのかと。隣の、あんなに性悪な人間が恋人と一緒に歩いているのに、なぜ私のような素晴らしい人間の恋人が死ななければならないのか。

「日本人」という病 これからを生きるために 河合隼雄著 静山社文庫

「このくらいの症状でしたら早く良くなりますよ。」
というと、安心する患者さんと、ムスっと少し怒ったような表情になる患者さんがいました。

初めはどうして怒った表情になるのか私には理解ができませんでした。
自分は患者さんを励ますつもりで言葉をかけていましたし、症状が早く回復するのは患者さんにとって良いことだと思っていました。

私は、整形外科的検査や柔軟性検査など客観的なデータを元に理屈を組み立てて治療をするタイプです。どうやらそのせいで、患者本人には『腰痛になるまでの「物語」』があるということを、全く無視してしまっていたようです。

「私がこんなにヒドイ腰痛になるまで家事をがんばって家族を支えた。」ですとか、「連日連夜の残業をがんばって首や肩がバキバキにに固まってしまった。」など、腰痛であれば腰痛になるまでのエピソードが一人一人違いますし、腰痛に秘められた思いも違うわけです。
こういった本人の物語に対して「このくらい」という言葉を使ってしまっていました。
客観的な検査では「このくらい」なのですが、本人にとっては「このくらい」では済まされる問題ではないわけです。

「こんなに筋肉が硬いのはヒドイですね。」というのもよく使われている言葉ですが、こんなに硬くなるまで頑張った自分を褒めてくれて嬉しいと汲み取る人がいれば、「そんなにヒドイのか?私は大丈夫かな?」と不安になる人もいます。

私は、「ヒドイ」とか「ダメだ」だという言葉はあまり使っていません。使ってもあまり治療進行の効果にあまり関係が無い気がしているからです。
「ヒドイ」現状をどうにかしたくて私に会いに来たわけで、じゃあこれからどうしていきましょうか?という話を進めるようにしています。「ダメだ」と言って相手を不安にさせて萎縮させてしまっては治療が進みませんし、「ダメ」な自分でも先生は受け入れてくれるという依存が強くなり過ぎても治療が進みません。(頼りにはしてほしいですけどね。依存だと最後の方で自分が責任をとれなくなるような気がしています。)

私が言う「大丈夫ですよ。」という言葉は、「あなたの苦労や悩みは私にも少し理解できました。このまま不安がっていても仕方がないから、どうにかして今より少しでもマシな状態にしていきましょう。」という意味合いで使っていることが多いです。

身体の運動技能の獲得や治療回復にも、本当は『物語』が必要なのではないかと私は考えています。しかし、「誰にでも」、「楽楽簡単に」といったキャッチフレーズや、多くの便利なマニュアルが、個人個人の物語を排除しています。「誰にでも楽々簡単にできる」マニュアルに全て従っているのであれば、それはあなたでなくても誰にでもできてしまうわけです。たとえ、それで成果が出ても、その経過の中にあなたの『物語』は存在していないのではないでしょうか。(物語の美しさだけにこだわって成果が出ていないというのもよくないのですが。)

便利な世の中になって『物語』まで外注できる世の中になってしまいましたが、『物語』は自分でつくっていくものです。自分の『物語』をつくるというのはとても体力が必要で苦しいことですけれど、楽しいですよ。