子どもの理屈と大人の理屈

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ShonEjai / Pixabay


小学校低学年の頃だったろうか。
放課後に友達と近所の公園でサッカーをしていた。
夕方になり自宅に帰る時間になった。帰り道でもサッカーボールを蹴りながら帰ろうという話になった。

ボールを蹴りながら階段を登ったり、横断歩道の端から端でパス交換したり、水路を浮き球蹴って超えたりいちいち余計なことをしながら帰っていた。
そんな中、友達の一人が浮き球を蹴るのに失敗して、神社の水路にボールが落ちてしまった。
長い棒など探してボールを引っかけて取ろうとしたが結局ボールは流されていってしまった。

家に帰って、父にボールを失くしてしまったことを説明していたら涙が止まらなくなった。

父は、「じゃあ、仕方がないから新しいボールを買いに行こう。」となだめてくれた。

しかし自分は「あのボールがいい!」と無理を言い泣きじゃくる。
(失くしたの自分なのだが、子どもなんてそんなものだ。)

「じゃあ、明日一緒に探しに行ってみようか。」と父に言われてようやく納得して涙が止まった。

翌日、神社近くの道路の排水溝の蓋を幾つか開けてボールがないか探してくれた。
排水溝を開けてもボールは見つからず、「じゃあ川まで探しに行ってみよう。」と車を走らせてくれた。

川でもボールは見つからず、そこでようやくボールが自分の元に戻らなくなったことを自分で納得した。

父が失くしたものと同じボールを買ってくれようとしたが、あえて色違いのものを選んだ。
自分がボールを失くした事実を忘れないように、今度買ってもらったボールは無くさないで大切に使うようにと、自戒を込めて。

大人の父には経験的に、科学的(あの神社の水路から排水溝に流れたボールが見つかる可能性は0%に近い)に、もうボールが見つからないことが解っていたが、経験も無い、科学的な知識も無い子どもの自分には解らなかった。

見つかるはずもないボールを探す手間と時間を考えたら、新しいボールを買った方が合理的なのだが、子どもは必ずしも科学的で合理的な「正解」には納得しない。

子どもが自分の納得する「物語」を作るのには時間がかかる。

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