俺だ俺だ俺だ誰だ誰でもいいや

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「先生、自分が新潟のこういう土地で、こういう両親の元に生まれて、こういう環境で育ってきて、物心がつく前から無意識にその影響を受けてきています。今の自分の考えていることや感じていることは本当に自分のものなのでしょうか?今、自分の頭で考えついたつもりでも、考えられることや感じられることの範囲は自分の生まれ育った環境に制限されてしまっているのではないでしょうか?」

当時はここまで言葉で固められていなかったけれど、二十歳の頃に先生にこんな質問をしたのを覚えている。
言葉にならない言葉を先生は汲み取ってくれて優しく笑ってこう返してくれた。

「そうだね、でも(もし制限されているとしても)自分で『選ぶ自由』はあるでしょう?」

当時は全く意味が解らなかったが、子どもの面倒くさい質問に対して大人が煙に巻くような素ぶりは全く無く、真剣に答えてくれたのだけは解った。今なら少しだけ解る気がする。

そもそも「自分」とは何だろう。
若い頃にしていた「自分とはこういう人間」だと主張する行為は、自分と世の中の関係性をどんどん断ち切っているようでもあった。

「○○さんのところの次男坊ね。」
違う、俺だよ。

「○○君の弟ね。」
違う、俺だよ。

「サッカーの上手な鈴木君ね。」
いや違う、俺だよ。

「背が高くて…」
違う、俺だってば。

「じゃあ、俺ってどんな人間なの?」



いや、わかりません。

自信満々に自分を主張しているつもりだったが、自分でも自分自身のことが解らなくて怖くて泣き出しそうになるときもあった。相手に答えを教えてもらいたかっただけなのかもしれない。
玉ネギの皮をどんどんと剥いていくような作業の末に芯のような部分を見つけられたかは解らない。でも自分の納得のいくまで「自分とは何か」と考え抜いて出た答えは「そんなものない」で、自分の中の考え方が180度ひっくり返ったのは解った。

自分とは何かに対して相対的に多数存在しているものであって、一人だけで存在できる絶対的なものではないのだと思うようになった。自身の育った環境の制限は受けるが、その小さい世界の中でもできることを全力でやっていくと段々と世界が広がっていく。

息子としての自分、弟としての自分。同級生といる自分、仕事している自分。サッカーやってる自分、こんな容姿の自分。
皆んな自分でいい。多数存在していてもきっと誰かが共通項を見つけてくれる。共通項を見つけてくれる人が親友だとか恋人と呼ぶ存在なのかもしれない。
皆んなが自分の周りにいてくれるから自分が安定していられる。わざわざ自分を主張しなくても大丈夫になった。

人間はある程度社会に組み込まれることで安定できる。
これから歳を重ねていくと自分の拠り所が一つずつ無くなっていく。
仕事を引退して社会的地位がお金が、歳を重ねて家族が友が体力が言葉などが無くなっていく。

また全て無くなった時に自分の中には何が残っているのだろう。また自分の中から全部無くなってしまっても、今度は笑っていられる気がする。