「『空気』と『世間』」読書記録

 電車で、たまにおばさんたちの団体さんに遭遇します。おばさんのうち、すごく元気な人が、まず車内に飛び込み、座席を人数分、確保します。そして、後からやってくる人に「ほら、ここ!取ったわよ!」と叫びます。
 席を取ったおばさんは、他の乗客が席の近くに来ても、当然のように無視して、自分の仲間を待ちます。仲間が遅れていて、他の人たちが戸惑った顔や、ちょっと怒った顔で空いている席を見ていても、そんな視線はまったく気にしないかのように、自分が取った席は、自分の仲間たちの席だと確信しているのです。

 おばさんは、自分に関係のある世界と関係のない世界を、きっぱりと分けているだけです。それも、たぶん、無意識に。

 おばさんは、自分に関係のある世界では、親切でおせっかいな人のはずです。そして、自分とは関係のない世界に対しては、存在していないかのように関心がないのです。
 この、自分に関係のある世界のことを「世間」と呼ぶのだと思います。
 そして、自分に関心のない世界のことを、「社会」と呼ぶのです。
(「空気」と「世間」 鴻上尚史 (著) 講談社新書より)

花見川サイクリングロードを走っていると小学生の標語が掲げてあって、

『輪の外に はじきとばすな 友達を!』

と書かれている。

小学生に反論しても仕方がないのだけど、『輪』の閉鎖性や排他性の方に問題があるだろうと見るたびに思う。
一度『輪』に入ってしまうと『輪』から抜け出すのが難しいし、抜けたら抜けたで、再び『輪』に入るのは困難だ。
『輪』に入っていない者は、『輪』に入っている者から攻撃を受けやすい。『輪』内の繋がりを強固にするためには『輪』内の全員で他者を攻撃するのが手っ取り早かったりする。

SNSを眺めていると、『世間』に向けて発信しているものと『社会』に向けて発信しているものとに分かれている。
『世間』の気心の知れた相手にだけなら言葉を選ばなくても意味を汲み取ってくれるが、『社会』ではそれが通用しない。自分は『世間』に向けて話しているつもりでも、『社会』に筒抜けになってしまっているからトラブルが起きる。
SNSの本当の面白さは、『社会』に向けて発信できるところなのだと思うが、みんな『世間』話をしている。

ずっと『輪』の中に入っていると『自分個人』が薄れていってしまって不安になるのは自分だけだろうか。
一緒にいると自分個人をクッキリと浮かび上がらせてくれる他者と、一緒にいると自分個人が段々とぼやけてくる他者とがいて、後者と付き合う時は距離感に注意するようにしている。

ビジネスも政治も、『社会』と『世間』の区別が曖昧で気持ちが悪い。これは最近のことなのか、昔からなのか。

「空気」と「世間」より
(前出より)


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