科学が進歩しても人の恐いものが無くなるわけでもなく

「私たちの科学の進歩によって、新型ウイルスの可視化に成功しました。
感染の疑いのある患者にこの新薬を服用してもらうことにより、患者が排出した新型ウイルスを青色に染め上げることができるのです。

電車の吊革やドアノブなど、青色に染まっているところに触れなければ感染する確率を減らすことができます。」

もしも、こんな薬ができたら、なかなか有難迷惑な新技術かもしれない。
楽しいショッピングで外に出かけても、つねに青色に染まっているところがないか見回して緊張するだろうし、街全体もさらに緊迫した空気に包まれるだろう。

科学の進歩によって、世界の事象のあらゆることを数値化し視覚的に理解できるようになってきたが、やはり人間はいくつになっても目に見えないものや予測できないものが恐くて仕方がないのだ。

新型ウイルスは恐いが、手洗いうがいをして、栄養のある食事をとって、お風呂に入って体を温めて清潔にして充分な睡眠をとるしか方法がない。

自分にできる限りのことはやっても、それでも感染してしまうかもしれない。
感染したら、うちの死んだジイさんやご先祖様が守ってくれるかもしれない。
死んだら、先に逝ったジイさんやヒイバアさんが待ってくれているかもしれない。
自分は良いことをして生きてきたからきっと天国に行けるはずだ。

昔から、人は「死」に対して最終的にこういった落とし所を作って安定していたのだと思う。

科学が発展するにともなって宗教的なものから離れていくが、科学が宗教のもつ機能を補えるわけではない。じゃあ宗教をやりましょう、といってもネットにはエセくさいものが溢れかえっているし、宗教自体が目的ではない。
科学的なものと宗教的なものの間をユラユラとぶら下がっている状態が安定しているのだと思うが、ぶら下がるのには体力がいるので、たいていは科学か宗教のどちらかの岸に座って休みながら対岸に向かって石を投げ合っている。

科学で世の中は便利になったが、皆んな体力が落ちている。昔の時代の人よりも、個人個人が「死」を受け入れる準備が下手になっているのかもしれない。

この調子で科学が発展しても、全ての事象を視覚化し理解して対処できるわけではないだろうし、そうならない方が皆んな楽に生きれる気がする。

 

 

「さらなる技術革新により、空気中のウイルスも染め上げることに成功しました。評判の悪かった暗い『青』はやめて、今度は明るい『ピンク』色です。」
 
本当に勘弁していただきたい。